契約書に「甲乙」表記が使われる理由
契約書において当事者を「甲」「乙」とする慣習は、日本人の契約書アレルギーの原因ともなっています。なぜこのような「甲乙」表記が使われるようになったのか、その由来、メリットとデメリット、契約書等における甲乙の使い方や文献情報をまとめました。
契約書における甲と乙とは
契約書の内容を確認したことのある方であれば、一度は「甲」と「乙」の記載を見かけたことがあるのではないでしょうか。甲は「こう」、乙は「おつ」と読み、日本語の契約書においては馴染み深い表記です。
次項ではこの甲乙表記の意味と由来について解説しますので、契約書における甲と乙について知りたい方は確認しておきましょう。
契約書の「甲乙」表記は単なる記号
日本語で作成された 契約書では、主語を「甲」「乙」としているものがほとんど です。例えばこのような使われ方がされています。
株式会社●●●●(以下、「甲」という。)および◯◯◯◯株式会社(以下、「乙」という。)は、△△△△△△の取扱いに関して、次のとおり契約(以下、「本契約」という。)を締結する。
通常の日本語の読み物では出てこないこの「甲乙」表記は、一般の方にとっては違和感しかないはずです。しかし、社会人になりビジネスで交わされる契約書を何度か見ているうちに、「なんか小難しいけど、契約書ってそういうものなのかなあ」と、諦めてしまっている方も多いのではないでしょうか。
実はこの 契約書の甲乙表記は、契約当事者の正式な法人名や個人名を略して称することで、契約書を書く手間を省く 目的で使われているだけのものです。したがって、それ自体に 法的な意味もなければ、必ず甲乙で契約当事者を表さなければならないというルールもありません。
契約書の甲乙は何に由来しているか
甲乙表記は、古くは中国で暦を表すために使われた「十干」(じっかん)に起源があります。十干は、「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の10の要素からなっています。
十干 | 音読み | 訓読み |
---|---|---|
甲 | コウ | きのえ |
乙 | オツ | きのと |
丙 | ヘイ | ひのえ |
丁 | テイ | ひのと |
戊 | ボ | つちのえ |
己 | キ | つちのと |
庚 | コウ | かのえ |
辛 | シン | かのと |
壬 | ジン | みずのえ |
癸 | キ | みずのと |
この 十干を「記号」のように契約書の主語の略称として用いたのが、契約書の甲乙丙丁の由来 となっています。
日本では、契約書に用いる以外にも、この十干を符号として広く利用していた実績があります。一例として、比佐祐次郎『小学校生徒成績考査法:新令適用』(六合館, 明治34)52ページでは、
点数を附せずして、甲乙の符号を附するの方法なり。事物の優劣を判定するに臨み、此符号を使用したりし事は何時より始まりしやは、確知するを得ざれ共、大方徳川時代の寺子屋などにて用いしものならん。
と、いわゆる通信簿・通知表の成績表示に甲乙表記を利用していたことが記載されています。
1つの契約書において、10人(10社)以上の当事者が登場するものはそうそうありません。例外的に当事者が多くなる契約の代表として、当事者が6名(6社)以上になることも少なくない映画・アニメの製作委員会契約などがありますが、それでもせいぜい戊・己ぐらいまでで足りますから、十干あれば十分といえます。
契約書における甲乙の日本と海外の違い
日本においては契約書で甲乙表記を使うことが一般的ですが、海外でもこれに類似する文化はあるのでしょうか。次項では契約書における甲乙表記について、日本と海外の違いを解説します。
甲乙を記号として契約書に使うのは日本独特の文化
実は、甲乙を契約書の当事者表記の略称として用いるようになったのは、日本独特の文化 です。
これが日本独特のものであることを述べた文献として、福井健策『ビジネスパーソンのための契約の教科書』(文春新書, 2011)があります。
この甲乙丙ですが、これは日本スペシャルです。いや、正確には中国や台湾などでは使う例があるようですが、英米ではあまり使うスタイルではありません。ときどき、慣れない方が英文契約を作る際に、「John Doe (以下「A」と呼ぶ)」なんてABCで書いていらっしゃることがありますが、一般的ではありません。
英文契約書では甲乙のような単純記号化は行わない
上記書籍でも述べられているとおり、英文契約書では、契約書の登場人物を甲乙のような、単なる記号に置き換えることはしません。
ではどうしているかというと、
- Microsoft Corporation → Microsoft のように、略称化する
- Seller(売主)とBuyer(買主)のように、意味的に代名詞化する
ことが行われます。
この英文契約の慣習に倣い、近年、日本語の契約書でも、
弁護士ドットコム株式会社(以下、「弁コム」という。)
弁護士ドットコム株式会社(以下、「委託者」という。)
のように記載する例が増えています。
契約書に甲乙を使うメリット
甲乙を契約書に用いるメリットを、あらためて整理してみましょう。
契約書の作成が楽になる
ビジネスで作成した 契約書をひな形化し、別の案件に流用する際に楽になる効果 があります。
企業がある案件で「甲」「乙」を使って契約書を作成すると、前文に記載する正式社名を変更するだけで、別の案件に流用する際に契約書本文の主語をいちいち書き直さなくてよいのは、契約書を作成する法務部や弁護士にとってはメリットと言えます。
契約書を読み慣れている人には読みやすい
記号として頭の中でサッと置き換えることも苦にならないような、契約書を読み慣れた方にとっては、記号化によって契約の内容をすばやく読み解くことができる とも言えます。
文字数の少ない記号にすることで、契約書全体の文字量が減り、構造がシンプルに見える化できる という効果もあります。
契約書に甲乙を使うデメリット
メリットの裏返しで、甲乙を契約書に用いることには、デメリットもあります。
取り違えによる事故が起こる
記号ですので、頭の中で当事者に置き換えながら契約書を読み書きするわけですが、契約書を作成する際に、甲と乙を取り違えて書いてしまう リスクがあります。
「甲のみが損害賠償責任を負う」という条項が、実は「乙のみが損害賠償責任を負う」という条項を作成したつもりだったとしたら、作成者がもともと意図しない真逆の効果を生む契約書となってしまう、ということです。
契約書を読み慣れていない人には読みにくい
端的に、現代の日本では、甲・乙といった用語は契約書の世界ぐらいでしか見かけなくなっています。漢字1文字というのも、ついつい見落としてしまうおそれもあります。
ましてや、上で述べたように契約書の作成者ですら取り違えて甲乙を逆に書いてしまうことがあるぐらいですから、それを受け取った読み手にとっても読みにくいのは当然です。
法律や契約の 専門家以外の一般人にとっては、甲乙を使用するのは、契約書を単に読みにくくする効果しか生まない と言ってよいでしょう。
契約書等における甲乙の使い方
実際のところ、契約書等における甲乙表記について法律上の定めはありません。そのため、契約書等の書類で甲乙表記を使うことは必須ではなく、仮に使う場合でも甲乙の書き方に決まりがあるわけではありません。
とはいえ、慣習として甲乙表記を使うシチュエーションはありますので、契約書等の書類をやりとりする取引先の混乱を招かないような書き方を押さえておく必要はあるでしょう。
一般的には、乙より甲を上位と見做すことが多いため、顧客側を甲として契約書等に記載する傾向があります。
専門家の見解は「甲乙はなるべく使わないほうがよい」
契約書の甲乙の由来やこれを使うことの是非について、具体的に説明している専門書は、探してみると意外にも多くありません。専門家の間ではそれぐらいに「当たり前」化してしまっていると言えます。
以下、この甲乙問題に言及している文献を以下いくつか紹介します。そのいずれもが 「甲乙を使うのはおすすめしない」「短縮型・略称を用いるべき」 と述べています。
『改訂3版契約書チェックマニュアル』
弁護士法人飛翔法律事務所『改訂3版契約書チェックマニュアル』(経済産業調査会, 2019)の46ページでは、以下のように説明されています。
前文の基本的な目的は、当事者を正確に表示すると共に、契約書の中で「甲」「乙」「丙」「丁」等と略する場合の表記を説明することにあります。
しかし、当事者が多い場合(今回は4当事者ですが、当事者数がさらに多くなることもあります)、どの当事者が「甲」か「乙」かが分かり難くなり、契約書の作成時及びチェック時に誤謬が生じる危険があります。そのため、当事者数が多くて分かり難い場合には、会社名の短縮系を用いることも考えられます。
『逆引きビジネス法務ハンドブック』
塩野誠・宮下和昌『逆引きビジネス法務ハンドブック』(東洋経済, 2015)の78ページでは、以下のように説明されています。
【当事者名】 契約書では、当事者を「甲」「乙」等と置き直して表示する例が多い。しかし、契約書を読んでいる途中でどちらがどちらかわからなくなるという不便や、ドラフトの途中で「甲」と「乙」が入れ替わってしまうというミスも散見される。このような不便・ミスを減らすためには、当事者は「甲」「乙」ではなく、当事者の略称を用いて表示(例えば、「ソフトバンク株式会社」が当事者となる場合は「ソフトバンク」「SB」等と表記するといった方法である。)する方がよい。
まとめ
- 契約書の「甲」「乙」表記は、契約書の中で当事者を表すための記号であり、法的なルールや意味はない
- 甲乙のような記号で契約書を書くのは、日本独特の文化
- 甲乙を使って契約書を作成・解釈するとミスや事故の原因ともなるため、できるだけ当事者の短縮系・略称を用いたほうがよい
(橋詰)
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