マーキング義務の設定は必要か? —森本大介・石川智也・濱野敏彦『秘密保持契約の実務(第2版)』
企業が交わす契約書の中でも一二を争う流通量のNDA。その理論と実務を解説する数少ない専門書『秘密保持契約の実務』が、3年ぶりに改訂されました。
NDAレビュー業務に必要な基礎知識と典型論点を網羅
NDA(秘密保持契約書)は、企業規模や業種業界を問わず、法人では頻出の契約類型です。
それもあって、NDAは新任の法務担当者にとって契約レビュー業務のよきトレーニング素材になっています。法務担当者でない方も、大量に見ているうちに自分でレビューできるようになった、という方も少なくないことでしょう。
そんなNDAも、取引先との債権・債務を発生させる大切な契約書であることには変わりはありません。見よう見まねではなく、しっかりと理論と実務を抑え理解したい、そうしたニーズに応えるために、西村あさひ法律事務所の弁護士らがレビューをする前提として抑えるべき条文ごとの典型論点・法令・ガイドライン・裁判例を1冊に網羅 したのが、本書『秘密保持契約の実務』です。
営業秘密管理指針・限定提供データ・裁判例をアップデート
230ページ程度の薄い本であった初版から50ページ近く増えた第2版では、営業秘密管理指針・限定提供データに関する記述と引用裁判例がアップデートされています。
クラウドサービス事業者にとって、クラウドという仕組みそのものが顧客情報の秘密管理性評価にどう影響するのかという懸念もあったところ、2019年1月23日に改訂された営業秘密管理指針において、営業秘密をクラウド上で保管・管理しても秘密管理性は失われないことが明記 され、本書でもトピックとして取り上げられています。
また 不正競争防止法の2条7項で新たに定義された「限定提供データ」 については、新しく6章を設け、詳細に保護要件を解説。
この限定提供データに関しては、条文の定義上「管理されている技術上又は営業上の情報(秘密として管理されているものを除く。)をいう」とあることから、NDAの秘密情報の定義からも除外をしておかないと保護を受けられないのではないか?という懸念の声もあるところ、
- 「秘密として管理されているもの」が限定提供データの定義から除外されている趣旨が、営業秘密と限定提供データの重複を避けることにあること
- あるデータが営業秘密として保護されるのか、それとも秘密管理性の要件を満たさないために限定提供データとして保護されるのかの境目は必ずしも明確でないこと
の2点から、「秘密情報の定義から敢えて限定提供データを除外すべきでなく、かつそのような対応を採る必要もない(P29)」と、具体的な当てはめとともに実務家の不安に応えてくれます。
経産省NDAひな形との差異
本書には、西村あさひ法律事務所お墨付きのNDAひな形が収録されています。ここで悩ましいのが、本メディアでもたびたびご紹介している 経済産業省お墨付きのひな形と、どちらを信ずる神とすべきか、という点です(参考記事:経済産業省が公開する「NDA(秘密保持契約書)ひな形」をご存知ですか?【Word版ひな形ダウンロード付】)。
この比較検討のため、本書西村あさひひな形と経産省ひな形の主な差異を挙げてみたいと思います。
(1)マーキング義務: 西村あさひひな形 × / 経産省ひな形 ◯
秘密情報を受領する受領者の立場としては、開示者が開示する秘密情報が一見してそれとわかるよう、「秘密情報」「マル秘」といった目印をつける、いわゆる「マーキング」がなされた情報のみ秘密情報として取り扱いたいというニーズがあります。
一方、開示をする開示者としては、事務作業としての手間が増えることに加え、実務上現場担当者が開示時にマーキングを漏らさないという保証もないため、この義務を契約書には設定したくないという思惑があります。
このマーキング義務について(西村あさひによる本書・経産省ひな形解説ともに「あり・なしの両案がありうる」ことにつき言及・解説はありますが)、西村あさひひな形には設定がなく、経産省ひな形にはある、という点が1点目の差異です。
(2)独自取得・創出情報の除外: 西村あさひひな形 × / 経産省ひな形 ◯
秘密情報の定義を行う条項において、秘密から除外する例外規定として「開示を受けた後、相手方から開示を受けた情報に関係なく独自に取得し、又は創出した情報」を明示的に列挙しておくか、という論点があります。
社内に情報のチャイニーズウォールをひき、本当に秘密情報と関係なく独自に取得・創出したのであれば除外されるべきは明らかではあるのですが、これをあえて契約書に記載しておくことが必要か、あってはいけない流用がエクスキューズしやすくなってしまうのではという観点から、これを忌避する向きもあります。
この独自取得・創出情報の除外規定についても、西村ひな形には設定がなく、経産省ひな形には設定がされています。
(3)専門家開示権: 西村あさひひな形 ◯ / 経産省ひな形 ×
西村あさひひな形には、「弁護士、公認会計士、税理士、その他のアドバイザー」への開示をあらかじめ認める記載があります。これについて、経産省ひな形には設定がありません。
そもそもこの記述が無ければ専門家への開示が認められないのかも論点ですが、それをいったん置いても、一方で西村あさひひな形にあるような「その他のアドバイザー」にも無限定開示を認めるか、法文上守秘義務が明定された法律専門家にとどめるかは、流派が分かれるところです。
(4)弁護士費用を含む損害賠償義務: 西村あさひひな形 ◯ / 経産省ひな形 ×
細かな差異ではありますが、西村あさひひな形には損害賠償義務に「合理的な弁護士費用を含む」との記載がある一方、経産省ひな形にはありません。
日本の民事訴訟においては、弁護士費用を賠償請求しても認められにくいと言われてきましたが、近年、これを契約上設定していたことを理由に認容する裁判例も見られるようになっており(この点については別途記事執筆予定)、検討の余地があるところです。
「機密事項として指定する情報の一切」の解釈が争われた裁判例
以上4点のうち、もっとも大きな差異は(1)のマーキング義務を設定するか否かでしょう。
この点、本書P25の脚注でも紹介されている東京地判平成29・10・25において、「機密事項として指定する情報の一切」の解釈について争われています。
本件秘密保持条項において開示又は漏えいが禁止されている情報は,「業務上知り得た機密事項」であり,①経営上,営業上,技術上の情報一切,②取引先に関する情報の一切,③取引条件など取引に関する情報の一切,④機密事項として指定する情報の一切,がその内容であると規定されている。本件秘密保持条項の対象が「機密事項」であり,また,包括的な規定である④において使用者が機密事項として「指定する」ことが前提とされていることに照らすと,当該機密事項については,公然と知られていないこと,原告の業務遂行にとって一定の有用性を有すること,原告において従業員が秘密と明確に認識し得る形で管理されていることを要すると解すべきであり,これを前提とする限りにおいて,本件秘密保持条項は有効というべきである。
そう多くない日本の秘密保持契約に関する裁判例に典型的な元従業員と会社との紛争であり、かつかならずしもマーキングが必須と明言されているわけでもない点は割り引いて見る必要がありますが、「秘密と明確に認識し得る形で管理されていることを要すると解すべき」と判示されているのを見ると、マーキング義務はあった方がベター、とは言えそうです。
このような点も含め、究極にシンプルさを追求し相手方にとっても受け入れやすい経産省NDAひな形をベースとしつつ、こうした本書の指摘も踏まえて、必要に応じ最小限にアレンジしていくのが良いのではないでしょうか。
(橋詰)
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