ブックレビュー 内田貴『制度的契約論』
電気・ガス・通信・交通といった生活インフラに加え、日常的に利用するインターネットサービスなど、利用規約に基づいて提供される画一的サービスはますます増えています。
一方で、利用者は、それらサービスを提供する事業者が定めた利用規約に従う以外の選択肢を持ちません。このような契約スタイルはどうして正当化されるのかを考えるにあたり、ヒントになる一冊です。
制度的契約というあたらしい契約概念を定義
制度的契約とは、公共サービスのような、財やサービスを継続的・安定的に提供すべき性質を持った契約関係を整理するために、著者内田貴氏が定義した概念です。
特定の当事者同士の契約関係でありながら,一方当事者が,同様な契約を結んでいる他の当事者や,まだ契約関係にない潜在的な当事者への配慮を要求されるような性質の契約が存在する.もっとも,どのような契約がそのような性質をもつかは,アプリオリに明らかであるわけではないが,一般的に言えば,そのような配慮は,国が財やサービスを国民に対して提供する場面で要請される配慮と共通している.(中略)そこで,「公的」「公共的」という表現を避け、「制度的」という表現を用いることにしたい.個別の私的取引と異なり,国や地方公共団体の制度にみられるような性質が,ある種の契約に見出されるという理解である.これを「制度的契約」と呼び,典型的な商取引で用いられる契約である「取引的契約」と対比させることにする.(P57)
古くは国が提供していたような財やサービスを提供する「制度」が次々と民営化され、「契約」によって提供されるようになった現代。日本でも、交通(国鉄)・通信・郵便と民営化され、最近では電気・ガスだけでなく水道の民営化も検討される時代になりました。
民間の事業者が民間の利用者にサービスを提供をするとき、一般には個別に交渉をして契約を締結するわけですが、もともと国営企業が提供していた規模のサービスともなれば、そうしたプロセスを挟むことなく、事業者が定める「約款」に基づいた契約を余儀なくされます。
身近なインターネットサービスでも、これに似た状況が発生しています。特にスマートフォン時代になって、GAFAと呼ばれる4大事業者(Google・Apple・Facebook・Amazon)の息がかかったサービスを一切利用せずにインターネットを活用することは、ほぼ不可能と言ってよいでしょう。そして彼らも、「利用規約」に基づいた契約の締結を強制しています。
こうした契約の強制がどのようにして正当化されるのか、正当化されるにあたっての前提条件やポイントはどのような点にあるのかを分析したのが、本書『制度的契約論』です。
松下年金訴訟という実戦で用いられた制度的契約論
契約交渉を排除しつつ、合意は(形式的に)確保することで正当化を試みる契約スタイルとして、いわゆる約款理論がありますが、制度的契約論はこれとは異なると著者は述べます。
制度的契約という概念で把握しようとしている契約においては,個別交渉やそれによる契約条件の修正は,単に事実として行われないのではなく,正義・公平に反すると観念される.対象となる全ての人との関係での平等で差別のない扱いこそが,この種の契約の本質的要請だからである.
以上の特色は,古典的な契約のパラダイム(交渉と合意)が妥当しない契約であることを意味している.この特質は,単に契約自由の原則が制限されたタイプの契約という捉え方を拒絶するものであり,もはや伝統的な約款理論による理解の限度を超えている.(P64)
この制度的契約論が活用され注目された具体的事件として、平成16年〜18年に渡る松下年金訴訟があります。
当時松下グループは事業のリストラを進めていましたが、従業員が加入する年金契約において7.5%〜10%で設定されていた給付利率を、一律2%引き下げるという契約(約款)の改訂を実施。これに対し集団訴訟が提起されました。
当時東大教授であった内田貴氏は、自身が研究していた制度的契約論を用い、企業側弁護士を支援する鑑定書とそれに対する相手側反論書への再反論を二度に渡り提出。内田貴氏は、松下の年金契約を制度的契約と整理した上で
- 変更の必要性
- 変更内容の社会的相当性
- 変更手続きの合理性
といった要件を満たせば、制度的契約は(一方的に)改訂しうるという議論を行い、その内容が裁判官に大筋採用され、企業側を勝訴に導いたと言われています。
すべての契約は利用規約になる
契約とは、ある当事者同士が、ある時点でのお互いの個別の都合や事情を反映させながら交渉し、将来に向かっての合意をして締結するものだと一般に考えられています。そして、契約をする以上は、当事者はその契約に基づく信頼関係が長期的に継続しお互いを拘束することを当然に望みます。
この「ある時点」での合意が「将来に向かって長期に」お互いを拘束するということは、お互いにとってのリスクにもなります。なぜなら、どんなに契約書を細かく精緻にして「ある時点」の合意をしたとしても、その時点で前提となっていたことが「将来に向かって長期に」変わらないという保証がないからです。松下年金訴訟の例を持ち出すまでもなく、10年後どころか1年後の世界情勢も予測が難しくなっている現代では、そのリスクはますます大きくなっているといえます。
そうしたリスクが高まる一方で、それと矛盾するように、冒頭掲げたGAFAのみならずNetflix・Spotify・Salesforce・Adobeなどが、利用規約に基づく「サブスクリプションサービス」と呼ばれる月額定額支払い方式の長期契約スタイルを拡大させています。
この傾向が続くと、あらゆる財やサービスの提供を受けるに際して、交渉と合意を前提とした個別契約は古いものとなり、すべての契約が利用規約になっていく日もそう遠くないのではないか、という気がしてきます。そして彼らの利用規約は、当然に将来の変更の可能性をも予告しているわけですが、それにもかかわらず、料金をふくめた契約条件が変更される日になれば、利用者の反発が起こることは間違いありません。
すべての契約が利用規約となり長期化していく中、その条件を途中で変更することの正当性が問われる場面が増えていくであろうことを考えるにつけ、本書で内田貴氏が唱える制度的契約論にあらためて注目が集まるのではないかと予想しています。
(橋詰)
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